連続した時間の終わりに
小野晃太朗
『はくり』を読み、過去に中断し休止した継続する思考たちのいくつかが、湖底の泥をすくった後のように舞い上がった。
近しい他者を喪うということは共通の連続した時間を失うことで、自身から四肢に等しい重量物が突然失われた人間は例外なく失調する。
ところが、身近ではあるが親密さとは程遠い他者の死に接すると何が起きるのだろうか。
これは他者の失調に触れることとほぼ同義だと思う。
困ったことに他者から失調は伝播する。心身のバランスは乱れ、生活に影響が出はじめる。神経質になり、作為的な物事の意図がやたら鼻につき、内心から遠いところにある言葉が口をついて出てくる。何が起きているのか理解しているのに説明できない苦しい時間が続く。そのことを思い出すような体験だった。
人間社会の中で、持続可能性(サステナビリティ)を目的としたメンテナンス(補修・修繕)が走る時、
いくつか部品が入れ替わり、新たに作り直される。そうすると、アスファルトに大型トラックの開けた穴や凹みはなくなり、破れた電車の座席のシートは上から補修され、パッチワークの跡が残る。退去後の清掃で消えない痕跡は、修繕される。生活者のための補修や修繕はときに、隠蔽と呼ばれる。繕いの痕跡にあらわれる<作為>は、伝えようとしていなくても、意図を顕にさせてしまうことがある。
かつてわたし自身、ある親族の葬儀に参加した際、自分の記憶の中の故人と乖離した美化された語りに困惑したことがある。形骸化した美辞麗句はもはや沈黙に等しいことは本編でも触れられていたが、自身も弔問客にむけた弔辞の文章をまとめながら美化の矛盾に対して叙事するという抵抗を試みたが、過去の利害を勘定して帳尻を合わせることを落とし所とした。
いくつかの経験や記憶たちを手がかりに、現実と接続するものとしてこの戯曲を読み、ひょっとすると主人公はこの住居(アパート)なのかもしれないということを思った。
それほどに登場人物達は(生者も死者も問わず)みな等しく愚かで、無力で、奇跡の力を備えているように見えた。入居し、退去していく人間の存在は、住居にとって次から次へと通過していく時間そのもののようである。
アパートの住人たちの言動や態度からは、それぞれにかつて加えられた力とその痕跡が察せられる。(人間が人間に力を加えると、ときに変形がおこり、目に見えぬ痕跡が残るものだと思う)染み付いた匂いや時間をどうしても想像してしまうほどに、言葉選びが迂闊な瞬間がある。また、自己と他者との境界線が曖昧にも見える。(発言や行為などから。)
人々の会話の運びから、人から人へと力が加わる気配に敏感な作劇だなと思った。
住人たちの会話では地域コミュニティのように、関わる相手を<選べない>ことから発生している気味の悪いコミュニケーションが描かれていて、興味深いと思った。(本人や近親者しか知り得ないような身体的情報を見知らぬ他者が知っているような悍ましいものであったり、私的領域に土足で踏み込むような無遠慮で無粋な問いだったり。)それらがそよ風のように逆鱗を撫で回すような作用が働いていると思った。
極めつけは、生気の感じられない凍てついた空気の中を進行するバーベキューパーティの中を流れる摩擦のない時間を通して、結晶化したコミュニケーションの毒が露出した時。
憶測で語られる死者の思考と行動原理、死者との生前の関わりの記憶が語られる中で明らかになる無害さを装う姿勢と弁明のような言葉達。陰気な卑屈さが、湿った人懐こさの皮を被っていたことが明らかになる瞬間、はらわたの奥底にあるものは熱く煮えているのに、額を氷で打たれたような衝撃があった。
作為がこわばりとして現れるように、繕った痕跡もまた違和感として現れる。言葉も気配も、この違和感が立ち現れるのは、対角に無為自然が置かれているからだろうか。住人の一人は「俺たちも自然の産物ってわけ」と語る。人間が無為自然のものとして、死者の存在は?
つぶてが死者と対峙する瞬間、掛ける言葉に、他者にむける言葉の選択があったことを思う。
すれ違うような会話で紡がれる本文を通して<作為>や<物語>となり得てしまう情動など、移動により生じる運動エネルギーに対して、<居る>とか<在る>の持つ位置エネルギーの復讐のような印象を持った。
これは、一見たよりないような、言葉を探すような言葉たちで編まれた、人間の存在を<なかったことにする>暴力に対しての、非暴力不服従の抵抗の方法なのかもしれない。
余談だが、作中で訪問販売員が神業のような営業方法を披露したとき、ジム・ジャームッシュの『リミッツ・オブ・コントロール』という映画のあるワンシーンを思い出した。主人公の殺し屋である「孤独な男」が、警備の厳重なターゲットの邸宅に侵入し、あっけなく発見された際につきつけられた「どうやって入った?」の問いに対して「想像力を使って」と返答する場面だ。この想像力の表れは、戯曲が<劇文学>たる所以だなと思い、そのやわらかいユーモアに対して、どことなく心強さを感じた。