『アクアビクスシ-ン』もしくは、演劇という名の水中。
志塚海斗(フランブルコ)
エマニュエル・レヴィナスという人がいる。僕はその人の「他者」についての考え方が特に好きだ。曰く「私が他者を理解しようとするとき、私はその他者を『殺人』しているのだ」云々。
簡単に言うと、僕(あなた)が「この人(他者)の事が分かった!」と思うとき、それは結局自分の受容できる範囲の、都合のいい理解の仕方でしかないよね、ということだ。レヴィナスはそれを「殺人」と表現したわけである。たぶん。
さて、『アクアビクスシ-ン』は、「他者性」についての作品である。
だが、この作品で扱われる「他者性」は、他者に向けて「ひらく」ことないし他者によって「ひらかれる」ことの、その効用や意味合いがポジティブに描かれているのでは決してない。
むしろ時流として、他者に向けて「ひらく(ひらかれる)」ことが是(美徳)とされる現代において、この作品は他者への「ひらけなさ」、もう少し思い切って表現するなら「閉じている」ことを非常に丹念に描いているように感じた。
「他者性」の対極である「私」としての現実を様々な方向から描いているのだ。
しかし、だからこそ本作は「他者性」についての作品であると改めて言うことができる。
他者に「ひらく」ことを、その困難さによって(順接的に定義するより克明に)定義しているのだ。
それは作劇の手法から見ても明らかだ。
この戯曲においては、各場の主人公たちを取り巻く「他者」はただただ面倒を持ち込んでくる悩みの種でしかない。どこまでいっても他者。もっと明確に表現するなら他人なのだ。
その意味で、この作品は従来とはおよそ異なる形の「ドラマ」を試みていると言えるだろう。
他者の登場により、私は悩まされ疲弊して、その内に生まれた言葉を自覚していく。それは、他者によって私が私自身の輪郭ないし境界線を明確にしていくようなやり方だ。そんな作劇手法がとられたこの作品は、従来のドラマとは異なる別の形のなにかが生まれている。
従来のドラマの手法 ―つまり他者に「ひらく/ひらかれる」ことを物語の帰結とする― を周到に回避し続けた結果として綱渡り的に誕生しているこの「なにか」を、例えば僕はこんな風に名付けたくなる。
「冷たいドラマ」といったように。
もうひとつ興味深いのは、この戯曲において作者の福島さんが名前のあるキャラクターと名前のないキャラクターとを強い意志をもって線引きしている点だ。
作品内で名前のあるキャラクターは場面ごとに主役となることを許されるが、そこに登場する他者(他人)は往々にして「無名の存在」だ。もう少し具体的に言うならば「関係性の呼称」としてしか存在することを許されていないのだ。例えば"友人"、"先輩"、"新人"などといった形で。
しかもそれが演劇という上演の形式に則って「名前を持つキャラクター」を演じていた俳優が代替的に演ずることは約束されているのだから、上演においてその「無名性」はより確実な輪郭をもって立ち上がることになるだろう。
それは一見すると、作家の暴力に見えるかもしれない。
だが、僕は作品を読み終えてむしろまったく逆の印象を覚えた。
他者に「ひらく」ことの限界と、その「めあて」的な意味合いが肥大化していくことによる圧迫感がしっかりと描かれていくことに、ある種の安心感を覚えたのだ。
ポジティブなメッセージや価値観に安住し、自身をアップデートし続けることを無言のままに強いてくる現代社会。その過渡への疲労を自覚させてくるこの作品は、僕たちにしっかりと負荷を課しながらも、より確実に自分が「生きている」という実感をその負荷によって与えてくれる。
この作品は、いわば水中だ。
呼吸。
陸上であれば意識を向けることもないその営みは、水中において強烈に意識的なものへと移行する。
現代という陸の上。そこで混乱や疲弊や煩わしさを抱えた僕らは、『アクアビクスシーン』という演劇のその水中に落とされて、ただひたすらに泳ぎ続けることになる。
抱えていたものは捨てざるを得なくなり、最終的には逃れようのない自己と対峙することしかできなくなる。泳ぎ続けるための息継ぎを続けるしかない。
それはどこまでいっても冷たい事実だ。本当は他者のことなんて考えていられないということを突き付けられるのだから。
だがその事実には、もうひとつの側面がある。
それは「いま、私が生きている」という、誰しもが持っているために、高らかに宣言するのも憚られるようになってしまった実感だ。
結局のところ、僕らが他者に対して与えられるものなんて「いま、私は生きている」という程度の宣言でしかないのかもしれない。だが、その宣言に立ち戻ることこそ今の僕たちには必要なのではないだろうか。
それは水中での意識的な呼吸によって死に抗い、とりあえず自分も、そして隣のレーンの名前も知らない他者も「いま、生きている」と無言のうちに確認し合うような作業だ。そこには喜びもアップデートもめあてもない。あるのは生の実感だけだ。
だがその実感は、少なくとも今この瞬間だけは、自分も他者も「殺人」していないという安堵感を与えてくれる。

志塚海斗(フランブルコ)
1999年、茨城に生まれる。以後、脳性麻痺により車椅子で生活。2025年より「フランブルコ」主宰。劇作を担当。同 3月『もはやこれまで』上演。その他の劇作に『プレイバック』(オムニバス公演「coldfeet」にて上演)、『カウマンVS』(「みんなで書く戯曲のコンテスト」優秀賞)、『CPU』(「上演されなかった戯曲集」にてリーディング上演)などがある。noteで批評を書く練習をしている。最近いちばん楽しいことは料理。
